不動の滝(長井大滝)

物語のある滝

不動の滝

 不動堂があることから、不動の滝とも呼ばれ、少し下流には小さな雌滝もあります。(昔は長井大滝と云ってたようです)
 宝暦箱訴では北大久野村では雨乞いと称して、村中神酒などを持参して集まり相談、増永に対する訴訟を起こすことを決めています。
 ここを流れる水は目の病気によく効くと言われ、目の病気が治ると、お礼参りには八ツ目ウナギを雌滝の上流に放したといいます。
    ↓↓↓ 「宝暦箱訴騒動」と「八ツ目ウナギの昔ばなし」 ↓↓↓

宝暦箱訴騒動(概要)            参考資料;日の出町町史

宝暦箱訴騒動
宝暦11(1761)年から北大久野村など田安領の村々が協調して闘い続けた、足かけ4年にわたる増税赦免願の惣百姓一揆で、特徴は暴力を用いない闘争を繰り返したことであった。
騒動の発端
田安領になって15年目の宝暦11年4月に郡奉行竹内勘左衛門らは、年貢を増徴するために武蔵国田安領75ヶ村の村々を巡検した。本年貢だけでなく新規の小物成(雑税)をも決め、途方もなく高率な増税を申し渡した。
騒動の経過
百姓たちは生活が立ち行かないと騒然となり、北大久野村も「雨乞い」と称して長井大滝(不動滝)に全百姓が集合相談し、赦免願を田安家の箱崎代官所へ提出した。
逆に無理難題を押し付けられ、翌年1月には呼出しがあり、出府した村役人たちは宿預けとなってしまい、やむなく赦免願を取り下げて帰村せざるをえなかった。これを知った百姓たちは、北大久野村のヤゴ山に13ヶ村の百姓800人ばかり集まり、命を賭けた門訴(直訴)の決行を決意する。
2月19日に13ヶ村の惣百姓が四谷の郡奉行竹内屋敷に押し寄せたが門前払いされ、「首をはねるぞ」と脅かされ、次に向かった家老の山木筑前守に「減免もあるだろう」と受理され22日に帰村した。ところが、代官の中嶋五左衛門から「増税が正当であるにもかかわらず、百姓たちが出訴に及んだことは不届きであり、首謀者を取り調べる。また、秋には見分を行う」という廻状が廻り。村々では再び門訴におよび、月番家老奥田備後守に七日七夜にわたって訴え続けた後、御屋形田安宗武への門訴に向かった。中心と目される百姓たちも呼び出され手鎖・宿預けとなり入牢を命じられてしまった。
窮迫した村々に「御差紙につき、御相談申したく御座候間、まだら峰へ明四ッ時(10時頃)、御出会くださるべく旨・・・」の廻状が電光石火の速さで通り抜け。4月4日に村々の代表は斑峰に集まり、幕府への箱訴で対抗しようと決めた。
第1回の箱訴は、閏4月11日に北大久野村、戸倉、上平井、長渕など7ヶ村が決行している。内容は割付状の数字を挙げて二重課税の矛盾など理路整然と増税の非及び入牢など非道な取り調べも訴えている。北大久野村は5回、大丹波村日影和田村は9回に及んでいる。
 この間の6月11日には、評定所から箱訴状に連名した者及びその村の村役人が呼び出され「田安家での調べがついていないうちに、直接将軍に箱訴するとは不届きである。箱訴状は焼き捨てる」と訴状は面前で焼き捨てられた。それでも村々は箱訴を続行した。
勘定奉行の判決
9月に勘定奉行の吟味が始まり、19名の名主・百姓が入牢を命ぜられるなど厳しい取り調べが続いた。12月26日に吟味が終了した。
宝暦13年8月の判決では所払い8名など260名が処罰を受け、判明するだけで12名の牢死者が出た。牢死者の多くは結審後も出牢を許されず、牢で冬を越した名主らである。北大久野村の年番名主兵右衛門もその一人であった。一方、田安側の処罰は、郡奉行の竹内勘左衛門と代官中嶋五左衛門が職禄を没収されたのみである。百姓側が勝ち取ったものは新規小物成の廃止のみで、本年貢増徴は田安側の主張が認められた。
長年にわたる控訴とそれの係わりによって村々は疲弊してしまった。


不動の滝(雄滝)

八ツ目ウナギの棲む沢   
       「日の出町の昔ばなし」より

 小さな橋を渡って7、8分ほどの山のなかに入ったところに、およそ滝とは思えない小さな滝がある。これを雌滝という。ここからさらに4、5分ほど進んだところに13メートルぐらいの大きな滝がある。その右側に不動尊がまつられているので、この滝は不動の滝と呼ばれる。ここを流れる水は、目の病気によく効くといわれ、むかしは、はるばる遠くからこの地をたずねる者があった。
 この滝は、辰巳の方向に落下しているめまずらしい滝である。目がなおると、そのお礼参りとして、八ツ目ウナギを雌滝より上流にはなしたという。そして、このウナギを食べたものは目がつぶれれるといわれた。
 こうしたいわれも、いつしか絶え、今はヤマメの小さいのが見られるだけで、八ツ目ウナギは1ぴきも見あたらなくなった。

(雌滝)